大河ドラマ「どうする家康」では、小早川秀秋が計算高く、したたかな人物として描かれており、新鮮な驚きと好感を持っている人が多いですね
僕もこの描かれ方はとても好きです
もともと小早川秀秋には関心を持っていて、事実として自らの軍事行動で関ケ原の戦いの行方を決定づけたこと、若くして天才武将だったのではないかと思っていました
東西どちらかを決めかねたのは優柔不断ではなく、戦いの趨勢を慎重に緻密に見極め、自分が手柄を得る最高のタイミングを探っていたからではないかと考えています
そして実際に最高の殊勲を得たことは見事というほかありません
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こうした事実とは裏腹に小早川秀秋に暗愚なイメージがつけられがちです
その大きな理由が「関ケ原の戦いの2年後に亡くなったとされる」ことではないでしょうか
若干21歳で病死とも自死とも言われます
「関ケ原の戦いで毛利率いる西軍を裏切ったことの罪にさいなまれた」
「酒におぼれた」
「大谷吉継の祟りにおびえて狂い死んだ」
といった散々な言われよう
しかし、普通に考えて21歳で病死は不自然だと思いませんか?
闘病したことや死んだとされる死因についてもはっきりとした記録が残っていないのです
(後年に創作じみた書物があるだけ)
確実に言えるのは、「小早川秀秋は大名ではなくなった」だけのことです
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この事実から僕は「小早川秀秋生存説」を考えています
小早川秀秋はやることをやり尽くし、
「大名(藩主)に飽きて自由に生きた」のではないでしょうか?
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小早川秀秋の出自を追って探ってみましょう
小早川秀秋はもとは豊臣秀吉の甥、正妻おねの兄の五男になります
生みの親の家は秀吉から支援されたと言っても平凡な家庭であったことでしょう
その五男ともなれば親も養子に欲しければどうぞという感じだったのではないでしょうか
天下の豊臣秀吉の養子となり、当時最高の英才教育を受けたことでしょう
生まれつき聡明だったため、様々な武芸や兵法を習得し、サイボーグのような天才武将に育てられたと考えられます
しかし、幼いころから天下人の後継者として期待され、裕福に暮らした一方で、生みの親の兄たちは貧しいながらも気ままに生きている
自分だけが期待されていることに対する複雑な思いを感じていたかもしれません
それでも天才ゆえに順調に手柄を重ね、ついに関ヶ原で最高の殊勲を挙げ、領地の大幅な加増を得る
若干20歳のとき、自分はこの先の人生どうしたいかを真剣に考えたでしょう
「モチベーション上がらないんで藩主やめてもいいですか?」
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確実なのは
「小早川秀秋が岡山藩主ではなくなった」
「小早川家が無嗣改易になった」
ということだけです
普通に考えたら「藩主でなくなったのは死んだからだ」と思うかもしれません
でもどうやって死んだのか、どうも確証は少ない
死んでいない可能性は十分に考えられる
常人には考えられない浮世離れしたお坊ちゃん仕草として
「僕偉くなくていいんで自由に生きたいです」
と思ったのではないでしょうか?
そして先祖代々などのしがらみがないからそれが許されてしまう
家康からしても特にどうでもいいので「スキにしたら」って感じでしょう(笑)
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これらはあくまで僕の憶測です
ただ、小早川秀秋が優柔不断で暗愚だというよくあるイメージと、彼の抜群の実績には違和感があります
「関ケ原の2年後に死んだ」という説を否定し「藩主をやめて自由に生きた」となれば暗愚なイメージは湧きません
小早川秀秋生存説について、新しい史料が出て解明されていくことを期待しています